〜夏日のノスタルジア〜
あれからもう10年になるな、と八神太一は呟いた。
視線の先には東京湾と、その上にかかる真っ白な橋がある。こちらを見ずに呟かれた言葉が、問いかけなのか
それとも独り言なのか、石田ヤマトと武之内空は少しだけ考える必要があった。
……急になんだよ、しんみりした風に呟きやがって」
「俺がしんみりしちゃいけないっていうのかよ」
ヤマトが太一に向かって口を開いたが、太一は視線をいまだ海に向けたままだ。
その表情は硬くもないが、柔らかくもない。まるで途方にくれているようだ、と空は思う。
「10年って長いよな。俺たちの人生、まるまる半分だ」
そしてまた太一が呟く。
「そうね、あの頃の私たちには10年が人生の全部の時間だったもの」
その人生分まで、時間が流れちゃったわけだから。と空が太一に同意を示す。太一はようやくこちらを見た。
「だからだろうな。今って日を迎えるのに、去年や一昨年とは全然感じ方が違うんだ。
でもその感じ方ってのが上手く言えなくて……すごくもやもやする」
まるで喉に小さな骨がつかえたかのような、そんな表情だった。感じていることを上手くいえないというもどかしさ、
それが顔に表れている。
そしてそれは、ヤマトも空も同じだった。
三人が今いるのは、今日という日を祝うために、みんなで決めた集合場所だ。しかし時計の時刻は、
集合時間のはるか前を指している。
三人は示し合わせた訳でもなく、ここに早く来てしまっていた。同じとはいえないが、限りなく近い感情の赴くままに。
「……俺もだ」
呟いて、ヤマトは胸に手をやる。
「今年の、この日が近づくにつれて妙にざわついてきた。どうしようもなく胸をかきむしりたくなるほどだ」
その感情の、理由ならば分かる。けれどその感情を表せる言葉を、ヤマトは持ってはいなかった。
「私も」
空もまた、東京湾に視線を向ける。彼らの感情とは逆に、水面はゆるく波打つばかりだ。
「最近、昔のことばっかり思い出すようになっちゃった。いつまでも覚えてるって思ってたのに、
今じゃ些細なことは思い出せなくなってる」
空の言う昔のこと。それは太一にとってもヤマトにとっても、人生を変えたあの夏の日のこと。
今日みんながここに集まる理由であり、三人の感情の、理由でもあるはずのそれ。
「それでもあの頃の思い出は、すごくきらきらしてて。そりゃあ大変だったし二度と経験したくないような事だって
沢山あったけど……でもそんなのかすむほどに大切な記憶だから」
だからこそ、今ひどい寂寥感に見舞われるのだ。そう言って空は目を伏せた。
彼らは、今年に成人式を迎えた。それは社会が彼らを「大人」と認めた証でもある。
事実、あの時と比べると、彼らは成長した。肉体的にだけではなく、きっと精神的にもそうだろう。
今の自分と昔の自分を比べると、きっとどこかが違っている。経験をつめば、おのずと世界の見方は違ってくるのだ。
それは喜ばしいことで、子どもだった時の彼らが望んだものでもあったはず。
けれど一度「大人」になってしまえば、決して子どもに戻ることは出来ない。
寂しいのは、あの頃にしか見えなかった世界が、確かに存在したからだ。
「なんかさ、不毛なこと考えてるよな俺たち」
「そうだな、これって感傷に浸りすぎてるだけかもしれない」
「でもやっぱ20歳にもなると、感じ方が違うように思っちまうのだって納得いくだろ?」
「納得するも何も、三人ともこうしてしんみりしちゃってるからね」
そこで、三人はようやく笑う。
「ああ、でもたまにはしんみりするのも悪くないかもな」
「でもこういうはっきりしねぇ感情って気持ち悪いんだよ……
ひょっとしたら、また10年後に同じことになっちまってるかも」
「そんな先の話……なんて言えないわね。何だかここまでくるのがあっという間だった気がするもの」
「空、さっき10年が長いって同意しただろ?」
「確かに同意したけど、あの頃と今では感じ方が違うじゃない」
年を重ねるほどに、時間の流れは速くなる。
きっと次にくる10年後は、あっけなくやってくるのだろう。その頃には三人とも、学生ですらなくなっている。
その時に今と同じ事を考えるのか、それともまた別のことを考えるのか。
今はまだ分からない。10年前、彼らがそうであったように。
「……そろそろ集合時間20分前、だな」
「あー、そろそろ光子郎か伊織が来る時間か」
「丈先輩もじゃない?」
「でも丈はたまにひどく遅れてくるからな、本人の意思とは関係なしに」
今はまだ来ていない、仲間たち。彼らもまた10年という歳月に思いを馳せたりしているのだろうか。
「なぁ、ヤマト、空」
「何だ」
「何?」
「折角の10周年なんだ、今年はいつになく盛大に祝ってやろうぜ」
それこそ寂寥感なんて吹き飛ばすくらいにはな。太一はようやく、いつものまじりっけのない笑顔を浮かべた。
2009年8月1日、あの冒険から丁度10年。
選ばれし子どもたちの誰にとっても特別なこの年は、三人にとっては更に特別な年でもあった。